その店は看板もない。名前もまだない。営業時間さえ曖昧で、告知なく休む時もあれば、翌日の午後二時まで開いていることもある。店内ではラテンのダンスミュージックが始終かかり通しである。
そんなふうに言えばラテン・ディスコやバーの類と思われるかもしれない。だがその店はとある点で他と決定的に違っている。おそらく、この種の店は日本に一店だけではなかろうか。かかるダンスはサルサ、メレンゲ、バチャータ、アラビアン、ジプシー音楽など。ほとんど、売春窟で生まれたとされる音楽である。
せまい店内で、ラティーノたちが、華麗なステップを踏む。汗だくで、鏡のなかの自分をじっと見つめ、真剣そのもので踊る。とある点で社会的に疎外され、独自のつながりの中で生きる他ない彼らの熱気を浴びるために、私も冷たい夜の川風の中を通いつめている。
店の近くの川端に長谷川伸という作家の生家を示す碑を見つけた。明治生まれの大衆作家で、『瞼の母』が有名だという。いわゆる任侠もの、人情ものを書いた作家らしい。
昨今の日本の小説には熱が感じられなくなった。書き手も読み手も、その状況に手をこまねいて見ているだけで、誰も処置する手を持たない。小説は、日本語をある程度自由に使いこなせないとかけない。そのため、外国人で日本語で書く作家は多くない。それでも先回の芥川賞は中国人の楊逸に与えられた。
もし日本語がもっと外国人に開かれたものならば、いまの相撲界のように、横綱二人とも外国人ということになるのは必然である。単に語学の問題で、小説の世界だけいわゆるグローバル化から保護されているに過ぎない。株式投資の世界のように、小説の世界も、ラテン・アメリカや中東アラブ諸国などの作家の作品がアップ・ツー・デイトで世に出るようになれば、おそらく大半の現職の作家は仕事をなくすだろう。
日本の小説は淘汰にさらされなければならない。むしろ全部一度つぶれてしまえばいい。江戸時代の作家は、公序良俗に反した罪で、拷問を受けさえした。小説はもともとそんなものだった。
ラティーノの檻のようなその店は、通りに面して開かれている。道行く人は、とある点で特異な彼らを見て、ぎょっとして逃げるように去る。その檻の中で、燃え尽きかけた火種をじっと見つめている。いつか紅蓮の炎となるときを思っている。とある点で特異な作品を出版社に応募した。さて、小説は燃えるだろうか。